「狸親父」徳川家康も震え上がった?知られざる「戦国の恐がり」伝説
天下人・徳川家康の知られざる顔
戦国時代の最終勝利者として、約260年にわたる江戸幕府を開いた徳川家康。そのイメージといえば、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 時鳥」の句に表されるような、忍耐強く、計算高く、危機を「待つ」ことで乗り越えてきた「狸親父」といったところでしょうか。冷静沈着で、感情を表に出さず、天下取りという大事業を成し遂げた人物として語られることがほとんどです。
しかし、そんな鋼のようなイメージとは裏腹に、家康には意外な一面があったという説があります。それは、「恐がり」であったという人間的な弱さです。常に死と隣り合わせの戦国乱世を生きた武将にとって、恐怖は当然の感情ではありますが、天下人にまで上り詰めた家康が、時に震え上がるほどの恐怖を感じていたというのは、にわかには信じがたい話かもしれません。今回は、そんな家康の「恐がり」説を裏付ける、いくつかのエピソードに焦点を当ててみたいと思います。
三方ヶ原での悪夢と「しかみ像」
家康の「恐がり」を示すエピソードとして、最も有名なのが「三方ヶ原の戦い」での大敗とその後の振る舞いです。元亀3年(1573年)、当時最強と謳われた武田信玄の大軍と三方ヶ原で激突した家康は、一方的に打ち破られ、決死の覚悟で浜松城へ敗走しました。この時の混乱ぶりは凄まじく、家臣の中には討ち死にする者、離散する者が続出しました。
この極限状態の敗走中に、家康は恐怖のあまり脱糞してしまったという逸話が残されています。さらに、城に逃げ帰った家康は、この時の恐怖と無様な姿を決して忘れないよう、あえて自分自身の苦渋に満ちた顔を描かせたと言われています。これが、現在「しかみ像」として伝わる肖像画の由来とされています。
通常、敗北の恥辱は隠したがるものですが、家康はあえて自分の弱さや失敗を形として残しました。これは単なる自戒のためだけでなく、自らの恐怖や無様さを認めることができる、ある種の人間的な素直さの表れだったとも言えるのではないでしょうか。そして、この強烈な恐怖体験こそが、その後の家康に慎重さ、そして何よりも生き残るための執着心を植え付けたのかもしれません。
豊臣秀吉への臣従に見る葛藤
織田信長の死後、天下人への道を駆け上がった豊臣秀吉に対し、家康は最終的に臣従する道を選びます。小牧・長久手の戦いで秀吉と戦った後、家康は秀吉からの再三にわたる上洛要請に応じませんでした。しかし、秀吉が妹や母まで人質に出すなどして圧力を強めると、家康はついに上洛を決意します。
この上洛の決断には、家臣団からの強い反対がありました。油断ならない秀吉のもとへ単身乗り込むのは危険すぎると考えたからです。しかし家康は、天下の大勢が秀吉に傾いていることを冷静に見極め、ここで秀吉の機嫌を損ねれば徳川家は滅亡の危機に瀕すると判断しました。
この時の家康は、表面上は冷静さを装っていたかもしれませんが、内心では相当な覚悟と同時に、秀吉という稀代の人物に対する畏怖や恐れを感じていたはずです。実際に、家康が初めて聚楽第で秀吉に対面した際、その威圧感に圧倒されたという記録もあります。天下人となる前の家康にとって、秀吉はまさに畏怖すべき存在であり、彼に対する「恐れ」が、臣従という非情ともいえる現実的な選択をさせた一因だったのかもしれません。
老臣・鳥居元忠との別れ
天下分け目の関ヶ原の戦いを前にした慶長5年(1600年)、家康は伏見城を守備する老臣・鳥居元忠に、豊臣恩顧の大軍を引きつけるための壮絶な玉砕を命じます。家康は、西に向かう自軍の背後を固めるため、わずかな兵で巨大な敵軍を相手にする「捨て石」の役目を元忠に託しました。
この時、家康は元忠と酒を酌み交わしながら、これが今生の別れとなることを悟っていました。そして、元忠に対して、自らの天下取りにかける想い、そしてこの過酷な役目を負わせることへの苦渋、さらには家康自身が抱える「恐れ」や「不安」といった本音を打ち明けたとされています(この時の具体的な会話は、後世の創作も含まれている可能性があります)。
もし家康が単なる冷酷な「狸親父」であれば、このような情に訴えかけるような振る舞いはしなかったでしょう。苦渋の決断を下さざるを得ない状況で、信頼する老臣に対して本音を吐露したというのは、家康にも人間的な弱さや情があったことを示唆しています。自身の天下取りのためとはいえ、死地に赴かせる家臣との別れに、家康が内心で深い恐れや悲しみを抱いていたとしても、それは決して不思議なことではありません。
「恐れ」を知っていたからこそ天下人になれた?
これらのエピソードは、徳川家康が教科書的な「偉人」としてだけでなく、我々と同じように恐怖を感じ、悩み、苦悩する一人の人間であったことを教えてくれます。「恐がり」という一面は、彼の人間臭さを示すものであると同時に、彼が天下を取れた理由の一つだったのかもしれません。
常に最悪の事態を想定し、リスクを回避しようとする家康の慎重さは、「恐れ」を知っていたからこそ生まれたのかもしれません。不用意な賭けに出ず、耐え忍び、機が熟すのを待つという彼の戦略は、臆病さの裏返しでもあったと言えるでしょう。
知られざる「恐がり」伝説。それは、戦国乱世を生き抜いた天下人・徳川家康の意外な人間味であり、私たちが彼という人物をより深く理解するための一つの鍵を与えてくれるエピソードなのです。