偉人たちの知られざる物語

鬼と恐れられた信長も? 明智光秀への知られざる「心遣い」

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冷酷非情なイメージのその裏側

戦国時代、天下統一を目指して革命的な政策を次々と打ち出した織田信長。彼の名は、革新性とともに、比類なき冷酷さや恐ろしさの象徴として語られることが少なくありません。延暦寺の焼き討ちや、敵対者への容赦ない態度など、その峻烈な行いは、多くの人々に畏怖の念を抱かせました。

しかし、そんな「鬼」とまで言われた信長にも、教科書には載らないような、人間味あふれる一面があったと伝えられています。特に、彼の腹心でありながら、後に本能寺の変で主君を討つことになる明智光秀との間には、意外なエピソードが残されています。

明智光秀へ送られた、労いと激励の手紙

時は天正七年(1579年)頃。明智光秀は、丹波(現在の京都府中部から兵庫県東部)の攻略に長期にわたって苦戦していました。丹波は険しい山々に囲まれ、土豪たちの抵抗も激しく、光秀にとっては困難を極める戦いでした。

通常であれば、長期化する戦に主君は苛立ち、叱責の手紙を送るのが一般的かもしれません。しかし、信長が光秀に送ったとされる手紙には、意外な言葉が綴られていたのです。

信長は、光秀の苦労を深く労い、「日夜の骨折り、誠にもって珍重」と讃えました。さらに、丹波攻略の達成暁には、褒美として「天下に二つとない」と称される名器の茶器を与えることを約束し、その「目録」を先に送る、とまで書かれていました。

この手紙は、単に褒美をちらつかせて発破をかけるだけではなく、光秀の置かれた厳しい状況を理解し、その努力を認め、具体的な未来の報酬を示すことで、彼の士気を高めようとする意図が感じられます。

エピソードから読み取れる信長の「人間力」

この手紙のエピソードは、信長という人物の多面性を示唆しています。単なる恐怖政治で家臣を支配していたのではなく、家臣のモチベーション管理や、困難に立ち向かう部下への配慮といった、ある種の「人間力」を持ち合わせていた可能性を示しています。

もちろん、これを「優しさ」と断定するのは難しいかもしれません。冷徹な計算のもと、家臣を効率的に動かすための戦略的な行動だったと解釈することも可能です。しかし、いずれにしても、従来の「冷酷非情な信長」という一面的なイメージだけでは語り尽くせない、人間的な奥行きがあったことは間違いありません。

この手紙が送られたのは、本能寺の変のわずか数年前とされています。後に主君を討つことになる光秀と信長の間には、単なる抑圧と反発だけではない、複雑な主従関係があったのかもしれません。

知られざる一面に触れる

このエピソードは、私たちが教科書や物語で触れる信長像とは少し異なる視点を提供してくれます。偉人たちの行動には、表舞台の功績だけでなく、こうした人間的な側面や、知られざる心遣いがあったのかもしれません。信長もまた、悩み、考え、人間関係に心を砕く一人の人間であったのかもしれない、そう感じさせてくれるエピソードと言えるでしょう。