偉人たちの知られざる物語

「お大師様」空海も悩んだ?知られざる「命がけの留学生活」

Tags: 空海, 仏教, 歴史, 人物伝, 遣唐使

神秘のベールに包まれた「お大師様」空海の意外な苦労

弘法大師空海。真言密教を日本に伝え、書道、土木、教育など多方面で偉大な足跡を残した人物として、多くの人から「お大師様」と敬愛されています。日本全国には空海ゆかりの寺院や伝説が数多く残されており、どこか神秘的なイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。

しかし、そんな空海の偉業の礎となったのが、平安時代初期、命がけで乗り込んだ唐でのわずか2年間の留学生活でした。この期間、空海は現代の私たちが想像する以上に、過酷で人間的な苦労を重ねていたのです。今回は、偉大な「お大師様」の、知られざる「留学生活」の困難に焦点を当ててみましょう。

生還率わずか3割?決死の遣唐使船

空海が唐に渡ったのは、西暦804年のこと。第18次遣唐使船に留学僧として乗り込みました。当時の遣唐使船による渡航は、現代の海外旅行とは全く異なります。それはまさに命がけの旅でした。

粗末な木造船は外洋の荒波に弱く、難破や遭難は日常茶飯事。無事に対岸にたどり着ける船は、全体の3割程度だったとも言われています。漂流の末、異国に流れ着いたり、海賊に襲われたりする危険もありました。空海が乗った船も、無事だったのは4隻のうち彼が乗った船と、学問僧として同行した最澄が乗った船のわずか2隻のみだったのです。

漂着?難航?上陸後の絶望的な状況

空海たちの船は、難航の末、ようやく唐の福州に着岸しました。しかし、ここからがさらなる苦難の始まりでした。船が漂着した場所は、正式な入国手続きを行う港ではありませんでした。

当時、外国使節は定められた港に入り、身分を証明して初めて入国を許可されるのが通例です。しかし、空海たちの船は通常の航路から大きく外れて漂着してしまったため、唐の地方役人からは正式な遣唐使一行だと信じてもらえませんでした。彼らはスパイではないか、と疑われ、海岸で上陸許可が下りるまで何日も待たされることになったのです。

言葉も十分に伝わらない異国の地で、見知らぬ役人相手に自分たちの身分を証明し、都である長安への旅路を許可してもらう。それは現代に置き換えれば、全く縁のない国に不時着し、言葉の分からない入国管理局員に必死で釈明するようなものです。

この窮状を脱するため、空海は卓越した文章力で嘆願書を書き上げ、それを役人に提出しました。この嘆願書が功を奏したのか、ようやく一行は長安への移動を許されます。このエピソードからは、単なる求道者にとどまらない、空海の現実的な対応力や胆力がうかがえます。

最高の師との出会い、そして超速の学び

長安に到着した後も、空海には限られた時間しかありませんでした。正規の遣唐使による留学期間は通常20年でしたが、空海は何らかの理由でわずか2年での帰国を余儀なくされます。

この短期間で、真言密教のすべてを習得する必要があったのです。膨大な経典や儀式の全てを理解し、体得することは並大抵のことではありません。しかし、空海はここで運命的な出会いを果たします。真言密教の第七祖である恵果和尚との出会いです。

恵果和尚は、空海の類稀なる才能を見抜き、わずか数ヶ月の間に密教の奥義のすべてを授けました。これは異例中の異例であり、空海の尋常ではない集中力、理解力、そして何よりも恵果和尚との強い師弟の絆なしにはありえなかったでしょう。

短い期間で最高の師からすべてを学び取るという、プレッシャーと情熱に満ちた日々。そこには、私たちが想像するよりもずっと人間的な、切羽詰まった感情や、師への感謝の念といったものが渦巻いていたに違いありません。

偉業の裏にあった、知られざる人間ドラマ

海を渡る苦労、言葉の壁、役人との交渉、限られた時間での学び。お大師様として崇められる空海も、唐での留学中は私たちと同じように悩み、苦しみ、そして必死で道を切り開いていました。

これらの知られざるエピソードを知ることで、空海という人物が、単なる神秘的な存在ではなく、強靭な精神力と行動力を持ち合わせた、血の通った人間だったということがより深く理解できるのではないでしょうか。彼の偉業は、こうした想像を絶する苦難と、それを乗り越えるための並々ならぬ努力の上に成り立っていたのです。