葛飾北斎もまさか? 知られざる「生涯93回の引越し魔」エピソード
浮世絵の巨匠に隠された「引越し魔」という意外な顔
「冨嶽三十六景」や「神奈川沖浪裏」など、世界中にその名を知られる天才浮世絵師、葛飾北斎。生涯にわたって数多くの傑作を生み出し、90歳を過ぎてもなお創作意欲を燃やし続けたその姿は、まさに画狂老人と呼ぶにふさわしいものです。
私たちは北斎と聞くと、圧倒的な技術と情熱を持った孤高の芸術家というイメージを抱きがちではないでしょうか。しかし、そんな偉大な北斎には、現代の私たちから見ると少し奇妙で、なんとも人間味あふれる一面がありました。それは、彼が生涯でなんと93回も引っ越しを繰り返したというエピソードです。
なぜ、北斎はそんなにも引っ越したのか
生涯に93回。単純計算で、1年に1回以上のペースで住居を変えていたことになります。江戸時代の庶民にとって、引っ越しは現代以上に労力と費用がかかる一大イベントです。それをこれほどの頻度で行うというのは、常識では考えられません。
では、なぜ北斎はそこまで頻繁に引っ越しを重ねたのでしょうか。その理由は諸説ありますが、最も有名なのは「部屋が汚くなるから」というものです。
北斎は創作に没頭すると、部屋が絵の道具や紙切れで散らかり放題になり、足の踏み場もなくなるほどだったといいます。きれい好きだったというわけではなく、単に片付けが苦手だったか、あるいは絵を描くこと以外に興味がなかったためかもしれません。そして、部屋が限界まで汚れると、「もうここで絵は描けない」とばかりに、さっさと次の住居に移ってしまったというのです。
また、気分転換や心機一転を求めたという説もあります。常に新しい刺激を求め、同じ場所に留まることを嫌った彼の性格が、引っ越しという形で現れたのかもしれません。まるで、新しいキャンバスに移るように、住む場所を変えることで創作意欲を掻き立てていたのでしょうか。
娘・お栄との奇妙な共同生活
この頻繁な引っ越しには、北斎の娘であり、自身もまた優れた絵師であったお栄(応為)も付き合わされたといいます。娘は父の奇行に辟易しながらも、世話を焼き続けたと伝えられています。
ある時など、あまりの汚部屋ぶりに我慢できなくなったお栄が掃除を始めると、北斎は「きれいにするんじゃない!」と怒ったという逸話まで残っています。常人には理解しがたい感性の持ち主だったことがうかがえます。
しかし、引っ越しを繰り返しながらも、北斎とお栄は二人で絵を描き続けました。父娘であり、師弟であり、そして絵を描く同志でもあった二人の間には、常識を超えた強い絆があったのかもしれません。引越し魔というエピソードの背景には、そんな家族の奇妙ながらも支え合う日常があったのです。
引越し魔から見える北斎の人間像
この「93回の引越し」というエピソードは、北斎のどのような人間像を私たちに示してくれるのでしょうか。
一つには、彼の極端なまでの創作への集中力と、それ以外の事柄への無頓着さが見て取れます。絵を描くことこそが彼の全てであり、生活の基盤や住環境といった瑣末なことには、まるで関心がなかったかのようです。
また、常識や世間の目にとらわれない自由奔放な性格も浮き彫りになります。頻繁な引っ越しは、当時の人々から見れば奇人変人の類に見えたことでしょう。しかし、北斎はそんな周囲の評価を一切気にせず、自身の感性に従って生き続けたのです。
そして何より、このエピソードは私たちに「天才もまた人間である」ということを教えてくれます。教科書に載るような偉人も、部屋が汚れて困ったり、身近な家族を振り回したりと、私たちと同じように悩みや欠点を持っていたのかもしれません。
偉大さの裏にある、愛すべき「奇行」
葛飾北斎の生涯93回の引越しエピソードは、彼の偉大な業績からは想像もつかない、なんとも人間味あふれる一面です。それは、孤高の天才というイメージに、親しみやすく愛すべき「奇行」という彩りを加えてくれます。
もしあなたが北斎の浮世絵を眺める機会があったなら、ぜひこの引越しのエピソードを思い出してみてください。きっと、作品に新たな魅力や、そこに息づく北斎という人間の鼓動を感じられるはずです。偉大な芸術家でありながら、部屋を片付けられずに引っ越しを繰り返す。そんな奇妙な日常を送っていた北斎だからこそ、あれほどまでに自由で、生命力あふれる作品を生み出せたのかもしれません。